人権意識の「偏り」がもたらした課題と再構築の必要性
これまで述べてきた問題は、人権そのものが持つ価値を否定するものではなく、その解釈と運用が偏った場合に生じる弊害です。本来、人権は個人の尊厳を保障し、誰もが幸福を追求できる社会を目指すためのものです。
しかし、その解釈が極端に「個」に傾き、共同体における「他者との関係性」や「社会性」という視点が欠落したことで、学校現場は様々な課題を抱えることになりました。これからの学校が目指すべきは、個人の人権を最大限に尊重しつつも、それが社会という共同体の中でどのように実現されるべきかという視点を養うことです。
「バランスの取れた人権教育」への転換
具体的には、自身の権利を主張することと同時に、他者の権利を尊重し、社会の一員としての責任を果たすことの重要性を教える「バランスの取れた人権教育」が求められます。これは、単に「私には〇〇する権利がある」と主張するだけでなく、「私の権利が他者の権利を侵害していないか」「社会のルールの中でどのように権利を行使すべきか」を考える力を育むことを意味します。
例えば、言論の自由があるからといって、他者を誹謗中傷する自由はないということを教える。あるいは、自己表現の自由がある一方で、公共の場でのマナーを守ることの重要性を理解させる。このように、権利と義務、自由と責任のバランスを学ぶことが、真に成熟した人権意識を育む上で不可欠です。また、多様性を尊重しつつも、その多様性が社会全体の調和を乱さないための規範や共通理解を育むことが重要です。
そのためには、対話と議論を通じて、互いの違いを理解し、尊重し合う姿勢を育む教育が必要です。学校は、様々な背景を持つ子どもたちが集まる場所であり、そこでこそ、互いの価値観を認め合い、異なる意見を持つ者同士が建設的に対話する機会が提供されるべきです。時には、意見の相違から衝突が生まれることもあるでしょう。しかし、その衝突を恐れるのではなく、感情的にならずに論理的に話し合い、互いの落としどころを見つけるプロセスこそが、真の多様性を尊重する社会を築く上で不可欠です。
教員は、こうした対話の場を設け、ファシリテーターとしての役割を果たすことが期待されます。
教員の専門性と裁量を活かす環境の整備
そして、教育現場においては、「指導」と「支援」を対立するものとして捉えるのではなく、児童生徒の成長段階や状況に応じて適切に組み合わせることが求められます。例えば、幼児期や小学校低学年では、基本的な生活習慣や集団行動のルールを身につけるための「指導」がより重要になるかもしれません。一方、思春期を迎える中学生や高校生に対しては、自律性を尊重し、自己決定を促すような「支援」の比重が高まるでしょう。また、特定の課題を抱える児童生徒に対しては、個別の専門的な「支援」が必要不可欠となります。
重要なのは、教員がそれぞれの児童生徒の状態やニーズを的確に把握し、最適なアプローチを選択できる専門性と裁量を持つことです。しかし、現在の過剰なコンプライアンスや、些細な問題でもすぐに「人権問題」として取り上げられる風潮は、教員の萎縮を招き、自律的な判断を阻害しています。教員が安心して、時には厳しく、時には優しく、一人ひとりの可能性を最大限に引き出すために、教育現場に過度な介入をせず、教員の専門性を信頼する環境を整備することこそが、健全な学校教育の実現には不可欠なのです。
そのためには、社会全体が学校教育に対する理解を深め、教員の活動を支持する姿勢が求められます。些細な問題であってもSNSで拡散され、教員が一方的に批判されるような状況は、教員の士気を著しく低下させ、結果として子どもたちへの教育の質に悪影響を与えます。
保護者、地域住民、そして行政が、学校現場の現実を理解し、建設的な協力関係を築くことが、これからの学校教育の発展には不可欠です。行き過ぎた人権意識がもたらした課題は、教育現場に深く根差した問題であり、その是正には多角的な視点と、関係者全員の理解と協力が不可欠です。私たちは、真の意味で人権が尊重され、子どもたちが健やかに成長し、社会の中で自立できる力を育める学校環境をどのように築いていくべきなのでしょうか。
この問いに、社会全体で向き合う時が来ています。